辛い気持ちのとき。
誰かに話を聞いてもらいたいと思うかもしれません。
気晴らしを求めるかもしれません。
誰かに、ただ居てもらいたいと思うかもしれません。
またある人は、一人でいたいと思うかもしれません。
現実に、目の前にいないとしても、思い出す誰かのこと、誰かの顔、誰かの存在。
それは、細く、遠く、つながっているだけなのかもしれないけれど、
例えば、心のよりどころ。
懐かしい場所。
ふるさと。
大好きな音楽。
今日は、「第一回 全国ホームホスピス協会西日本大会」と言う会に出席させていただいていました。私の地元・神戸での開催ということもあり、一緒にお仕事をさせていただいている方々と席を並べさせていただいたのでした。
さて、みなさん。
ホームホスピスってご存知ですか?・・・の前に、ホスピスとか緩和ケアについて、
ご存知でしょうか?
緩和ケアについての定義については、詳しくはこちらをご覧くださいね。
今日の学びで一番大きかったことは、
「マニュアルだけではできない」
ことこそ、実はこの領域では大切だ、と改めて思ったこと。
それは、積み重ねを『形』にすること。
私たちのように、「こころ」を対象とする場合に、見えないものであるからこそ、積み重ねが大切であること、その積み重ねを形にすることが大切でありながらもとても困難である、ということ。
目の前にある大きな壁のように思っていたのですが、
自分たちだけでは到底、考えられなかった方法で、まず一つ、
作っていくことができるかもしれません。
いや、何とか形に、と思っています。
さて、表題の『Being』
緩和ケアの領域では、よく聞かれる言葉です。
Doing、つまり何かをする、ということよりも
Being「そこにある」「存在する」ということを、
生きていく中でも強く意識する時期。
それは、病というイベントで、自分自身の持ち時間を少なからず意識するということに他ならないのです。
わずか15年ほど前までは、WHO(世界保健機関)の定義でも、日本の厚生労働省の定義でも、「終末期」という言葉が並んでいました。
未だ、そのイメージがぬぐえないのは、本当に残念なことです。
生きるための医療が緩和ケアです。
日本では今では「がんと診断を受けたとき」から受けることができ、患者本人のみならず家族や身近な人に対しても対象とされています。
現に、私たちもご家族に対してのカウンセリングをしばしばさせていただいています。
カウンセリングだけでなく、生きるための希望を一緒に見つけ、実現に向けてそして実現することもまた、緩和ケアには欠かせないことです。
私たちにできることは、今はそう多くはないかもしれません。少なくとも、目の前にある手段は、そうなのだと思います。
でも、それは逆に『無限』を意味する、とも思うのです。
何故なら、関わるひと、関わる時期、かなえたいことが現れる都度、私たちは探っているからです。
私たちと、やってみたいと思われたなら、ぜひご一緒に!
手段、資格、技術よりもまず、
やろうと決めること。
もちろん、私自身にとっても大切なことです。
やりたい、と思われたならいつでもお待ちしています。
緩和ケアだけではありません。
知りたい、やってみたい、と思われたなら、ご連絡くださいね。
まず、そこに在ることから、始めましょう。 (知)
自然、そして自分
この写真は、昨年の今頃、神戸の屋根?壁?ひとつの象徴でもある六甲山から南側を見下ろした写真です。
神戸という町は、扇の地形をしている、と子供の頃に教わりました。扇でいうとカナメに当たる、とも言えるのかもしれません。
神戸出身者を見分けるのには、山を見て北だと思い込むため方向音痴が多い、のだとか。かく言う私も、京都で仕事をしていた時には、どちらを見ても北、と感じてしまったりしたものです。
六甲山、本当に身近な所から登ることができますし、何より中心地から見えるところに市章や錨の灯りを灯していますから、本当に当たり前の景色。また、神戸で育ったのであれば、遠足やキャンプで一度は訪れているはず。でも、まだ知られていないことも多いようで、六甲縦走と言う登山?トレッキングかな?が、毎年行われていました。
そんな六甲山ですが、
今でこそだいぶ穏やかですが、あちこち崩れたり、急な傾斜からの流れで川が氾濫したり、
そういった意味でも存在感のある山でもあります。
身近に自然を感じる、って言うけれど、そこに在る存在感。当たり前の景色、なんです。
自然は、色んな形で「猛威」を振るいます。でもそれは、あくまでも人間サイドの話。
生きているのは、お互い様、なんだなと思うんです本当のところ。
それは、今、世界中を席巻しているCOVIDA19(新型コロナウィルス感染症)だって、ウィルスにしてみれば、生き延びようと必死な訳です。ウィルスにしろ、腫瘍にしろ、「敵」が倒れるのは、宿主つまり体の持ち主が滅びることに尽きるとも言えます、逆に言えば、まさに共存出来るかどうか、なのかもしれません。
自分の二の腕に止まった蚊が、「食事」を終えるのをじっと見つめて待っていた友達がいました。
私には、到底無理ですが(反射的にぶっ叩いてしまう!)・・・。
それだって、強いアレルギーがある人には無理な話です。
六甲山からなんでこの話題?なのですが、その友人はとても自然と親しんでいて、山の樹木を調べたりする人だったから。
本当に自然と共存、と考えるのであれば、自分自身も守りつつ、相手(自然)のことも考えつつ。
そう言う、人との関わりにも通じることが大切なのかもしれません。